
「人間が人生を問うに先立って、人生から人間は問われている」とフランクルさんは伝えています。
「夜と霧」で有名なドクター・フランクルさんは人生の目的や生きる意味について、「人間が人生を問うに先立って、人生から人間は問われている」と言っています。
ユダヤ人強制収容所での過酷な日々を生き抜いてきたフランクルさんの言葉だからこそ・・・真実なのだろうと思わざるを得ません。
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ユダヤ人強制収容所でも絶望せずに生き抜いたという真実
「夜と霧」を読めばわかりますが、、これ以上に人として耐えがたい仕打ちがあるのかというほどの熾烈で過酷な状況をよく生き抜いてこられたな・・・と思います。
何も悪いことをしているわけでもなく、たんにユダヤ人だというだけで、フランクルさんの奥様も子供さんもすべて強制収容所で他界されています。
周囲の友人や知人、一緒に収容所に入った人たちも同様です。
しかも、強制収容所では食事、プライベートなどどう考えても人間としても扱われないような環境だったようです。
もはや人として扱われない、いつ出れるかわからない地獄で、人以下の扱いを受け、食事もまともになく、極寒の中、牢獄のような状況で人を詰め込んだような住環境・・。
寝床もなく、いつ命を奪ばわれるかわからない、処刑されるかわからない環境・・・人としての尊厳どころの話ではないです。
理不尽以外なにものでもない。
生きている意味、存在の意味すらないと考えてもおかしくはなく、実際、ほかの収容所に入っているほとんどの人は生きることを拒否していったということらしいです。
その中でフランクルさんが「生きる意味」を持って生きてきたこと自体がすごいことだと思います。
人生に対して何かを期待するのではなく、「自分は人生から何を期待されているか」を感じて生きていくこと。
どうしても人は他人や環境、大きく言えば人生が自分に何かを期待して生きています。
こうしてほしい、ああしてほしい。
明日はいい日がくるはずだ、あの人を頼ればいい道が開けるはずだ、ああなればいい、こういう風な未来になればいい等々・・・。
日々、何かを期待して生きているのが普通ですよね。
赤ちゃんって、理不尽にお母さんだったり保護者に甘えますよね。
で、ほとんどの場合、お母さんだったり保護者は、その赤ちゃんに生きるための糧や住環境を提供します。
お母さんだったり保護者が「赤ちゃん」に何かを期待しないはずです。
たぶん、フランクルさんの言っていることは、そういうことだと思うのです。
人生で起こることに対するアクションに「自分の生きる意味」があると考えるべきだと私は感じました。
私は何のために生きているのだろう?
ではなく
人生(神とか天とかなんでもいいのですが)から、私は何を期待されているのだろう?
を追求していくことが大事で
今の環境、今の仕事、今の家庭で「私は何を期待されているのだろう?」と考えて行動することが「生きる意味」「人生の目的」なのかな?と感じています。
人生とは「自分を越えた何か」からの問いに答え続けるプロセス
人生に起こるすべては・・・「自分を超えた何か」からの問いに答え続けるプロセスだ、とフランクルさんは伝えています。
今の仕事で、自分は何をすべきだろう?
今の家庭で、自分は何をすべきだろう?
今の心身の状態で、自分は何をすべきだろう?
今、起こっている出来事に対して、自分はどう対処すべきだろう?
正しい、間違えでなく「自分の意志を超えた何か」からの問い、起こっている出来事や状況に対して、どう反応し、どう理解し、どう回答し、どう行動していくかが人生そのものだ。
とフランクルさんは伝えているのではないでしょうか?
また、フランクルさんは人生を生きる上で「楽観的な考え方」をしているほうがいいとも夜と霧で伝えていますね。
まとめ:人生の目的、生きる意味→人生からの問いに明るく対処していくことそのもの
フランクルさんの強制収容所での経験は想像を絶するものであり、家族も理不尽に失い、自分の尊厳そのものもないなかで、確信したものが
ということになるのではないでしょうか?
辛い、苦しい、むなしい、悲しいといった状況も、それは「自分を超えた何かから与えられる人生からの問い」であると考えれば、それに対してどのような態度や行動で人生に答えていくかが重要で、人生に起きることすべてに答えて続けていくことが人生の目的、生きる意味ということになりますね。
今、生きて続けていること・・・そのものが生きる意味ということにつながるのかもしれませんね!
名著の新訳には、つねに大きな期待と幾分かの不安がつきまとう。訳者や版元の重圧も察するにあまりあるが、その緊張感と真摯さのためか、多くの場合成功を収めているように思われる。本書もまた、その列に加わるものであろう。
ユダヤ人精神分析学者がみずからのナチス強制収容所体験をつづった本書は、わが国でも1956年の初版以来、すでに古典として読みつがれている。著者は悪名高いアウシュビッツとその支所に収容されるが、想像も及ばぬ苛酷な環境を生き抜き、ついに解放される。家族は収容所で命を落とし、たった1人残されての生還だったという。
このような経験は、残念ながらあの時代と地域ではけっして珍しいものではない。収容所の体験記も、大戦後には数多く発表されている。その中にあって、なぜ本書が半世紀以上を経て、なお生命を保っているのだろうか。今回はじめて手にした読者は、深い詠嘆とともにその理由を感得するはずである。
著者は学者らしい観察眼で、極限におかれた人々の心理状態を分析する。なぜ監督官たちは人間を虫けらのように扱って平気でいられるのか、被収容者たちはどうやって精神の平衡を保ち、または崩壊させてゆくのか。
こうした問いを突きつめてゆくうち、著者の思索は人間存在そのものにまで及ぶ。
というよりも、むしろ人間を解き明かすために収容所という舞台を借りているとさえ思えるほど、その洞察は深遠にして哲学的である。
「生きることからなにを期待するかではなく、……生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題」というような忘れがたい一節が、新しくみずみずしい日本語となって、随所に光をおびている。
本書の読後感は一手記のそれではなく、すぐれた文学や哲学書のものであろう。
今回の底本には、旧版に比べてさまざまな変更点や相違が見られるという。
それには1人の哲学者と彼を取り巻く世界の変化が反映されている。
一度、双方を読み比べてみることをすすめたい。それだけの価値ある書物である。 (大滝浩太郎)
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